三原氏物語

賢くて可愛くて、誰もが憧れる無敵の障害者を目指すアラサーの闘病記

中学受験で義務教育を舐め腐り、敗北して燃え尽きたクズの末路

生きている実感のしない季節

 

雑談

別にコロナがどうこうとか言うつもりはない。1月、2月、そして3月。

 

この時期を気楽に、のんびり、平和だーとか言いながら珈琲を飲みながら過ごせるようになったのはいつ頃からだったかしら?

 

なんで1月〜3月にかけて、生きた心地がしなかったのか?

 

二文字で言う。

 

受験

 

それに尽きるわよ。

現在30歳のアタイ。真っ当にコマを進めているならば、19歳の頃には大学受験が終わり、その4年後には卒業していて今頃はどっかでサラリーマンをやっているだけの平凡でつまらない人生を送っていたのかもしれないわね。母親もそういう風に息子が育つのに期待していたのかもしれない。

 

だけどアタイはその期待を裏切り、今は丸の内界隈でサラリーマン相手に頭を下げながら販売員をする、所詮は小売りのバイトだ。もう一度言う、現在30歳よ。

 

あんまり過去の功績とか栄光とか、このブログでは言わないようにしてきていて、極力直近で起きたどうでも良いことを日記にして展開してきたつもりだったが、たまには過去の話でもしようじゃないか。

 

その気になればこの話だけで今書いている論文以上に長文のブログが書ける。でも面白くないから、今回は中学受験の体験記を書いておこうかしら。もうちょい付け足しておくと、アタイに栄光と呼べるほど輝かしい過去の思い出なんか一つもない事だけは断言しておくわ。

 

 

 

えっとさ、アタイがひねくれていて小賢しい理由。

中学受験をしたから。

 

これが真理だね。しかもその当時から然程成績は芳しくなかった。例のNの青いバッグを背負って俺は小五の終わりから2月の下旬まで、ほぼ休まずに夏だろうと雪が降る日だろうと塾に通っていた。

 

偏差値は大体いつも48くらいで、得意科目は理科と社会。国語と算数は苦手だった。

 

事の発端は家族で函館に寿司を食いに行く、っていうただの家族旅行のはずだった。飛行機が空港に着陸する10分くらい前までゲームボーイポケモンをやっていた記憶がある。あの当時はポケモンにアイテムを持たせて増殖させられるバグがあり、それを駆使して幾らでもコピーを量産する事でレアなポケモンもアイテムも手に入れ放題だったので、そんな単調作業にハマっていた。ちょうどポケモンの世界に昼と夜の概念が導入され、時間帯によって捕まえられるポケモンが変わり、小学生にとっての時間確認はポケモンを起動する事を意味していた。

 

塾通いとかいう職業の奴が勝負を仕掛けてきて、それを伝説のポケモンであるルギアのエアロブラストで瞬殺するという子供ながらに大人げないくらい全力で叩きのめす事が楽しかったのは覚えている。お前なんかがルギアをお目にかかれるとは愛でてぇな、誰に対して勝負挑んでんだ、早く塾でお勉強でもしてな!とか今になっても思う。

 

飛行機が着陸態勢のアナウンスを報じると同時に、セーブをして電源を切る。もう飛行機は10年以上乗っていないから今は知らんが、あの頃は離着陸時は全ての電子機器(通信するなんて論外)を切る必要があった。

 

さあ、これから函館の市場に行って寿司を食うんだ。またオヤジの勤めている会社の提携で安くホテルに泊まるんだな。というのが、子供ながらの感想。

あの当時は所得的にも中流層の家庭で、しかもオヤジはコネがあるから飛行機はほぼ乗り放題だった。ええ、昔は金持ちだったのよ。正直今回の函館も「またどっか行くのかよ・・・」と言った感じだった。内心では家で64のスマブラでもして遊んでいたかった。

 

タクシーに乗って家族で移動する。眠いから車内では寝ていたが、起こされて着いた場所は学校だった。私立中高一貫校 函館ラ・サール

 

随分と立派な学校だなとは思った。全寮制の学校で、全国から受験を勝ち抜いた生徒が学業から寝食までを共にするという環境。ハリー・ポッターが流行り始めていた当時で、女子がいないグリフィンドールみたいな感じだったのが正直なところ。

 

魔法こそ教えてはくれないが、毎年この学校から何人も難関大学に進学しているという実績もあり、四六時中友達と一緒に過ごせるなんて夢のような環境だと思っていた。広大な敷地を校長に案内してもらいながら、ラ・サールの教育理念や方針とかを親に説明していた。この日は別に学園祭でも学校見学会でもなく、どうやら親が知らぬ間に学校にアポを取って見学を申し込んでいたものらしい。

 

寮の中や風呂、食堂も見せてもらい面白い学校だなとは思ったが、極め付きは中学生ながらに小遣いが月に5000円も貰えるという事だった。(まぁ親の出す学費の中に含まれているだけなんだけど)

 

小学生だった当時の俺の小遣いは「学年×100」円が基本で、その10倍も貰える上に将来的に東大にいけちゃうならば、すげーなー なんて言った感じで学校見学は終わった。

 

その後ようやく昼時も過ぎた頃に市場に行って家族で寿司を食べながら「さっきの学校はどうだった?行ってみたいと思ったか?」なんて感想を聞かれながら、大好きなサーモンを頬張り、そんなに熱意も無いながらに「うーん、行きたいなぁ」と答えている俺がいた。

 

ここから三原の人生は大きく狂い始める

 

今ですらも賢くないのに、あの小学生当時はもっと頭が悪かった。あと親の説明も悪かった。というかひどかった。

 

正直小遣い5000円貰えて、「週末にはこうして仲良くなった友達と寿司を食べに行くこともできるんだぞ」なんて夢を見させられて、子どもに同意もクソも無かった。親が金を払ってくれたら普通に入学が出来る金持ちの行く学校だとすらその当時は勘違いしていたくらいに自分は馬鹿だった。

 

帰りの飛行機で羽田空港に着陸する寸前にポケモンのセーブをした。でもそれ以降、二度と起動する事はなかった。ゲームボーイは取り上げられた。

 

確かその日は日曜だったんだと思う。帰宅したら親には「明日は用事があるから、友達と約束はせずに帰ってくるのよ」と言われ、

 

その通りにして学校から帰ったら、いきなり母親と電車に乗って塾へ連れて行かれた。入り口には難解な謎解きの本や歴史の偉人伝、参考書が格納された本棚があり、その隣の棚には日本中の中学入試の問題集がある。

本なんてハリー・ポッターしか読んだ事のない俺からすれば、一生読むことのないものだった。

 

そして周りにいる小学生は皆メガネ。これでもかって言うくらいにメガネ。同い年のはずなのに、20歳くらい歳が離れているな、と思った。どいつもこいつも金融機関に勤めていそうな顔をしていて、子どもというか同じ人間に見えない。喧嘩をしかけても殴り返さずに法律並べて裁判を起こしてきそうな雰囲気をしていて、気持ち悪かった。

 

つーか空気が違う。ここは遊びに来る場所じゃない、絶対に冗談通じないだろう、というオーラが全開で間違いなくここに長くいたら同じ様な顔になると確信した。ここはやべぇと。

 

それで親の話が終わったのか、その日は帰る事に。

そしてその週末から現在に至るまで、地獄は続いている。

 

日曜。いつもならば小学校は休みで、別に8時半に登校していなくても、子供ながらに9時くらいまでは寝ていられる。つーか子どもから睡眠を奪うなよ。

そう、いつもならばコーヒーを淹れてヨーグルトを胃に流し込み、日差しを浴びながら一服する。・・・のは今の話だ。

いや、あの当時のいつもならば、大体9時前に起きておジャ魔女どれみが終わるかどうかの頃合いでテレビをつけ、デジモンを見ていた。今になって思うのは、無限大な夢の後には何もない世の中が待っているだけは間違いない。もっと歌詞の意味を咀嚼しておくべきだったんだ、小学生の俺。

 

7時半に起こされた俺は「こないだ行った塾の行き方は分かるよね?筆記用具持っていっといで」というキモすぎる生活スタイルに組み込まれるようになった。

 

切符の買い方すらまともにやった事がないくらいのゆとりが、なんとか塾にたどり着いてスタッフのお姉さんに教室の席を案内されて9時までキョドりながら過ごしていた。周りは必死にテキストとかノートを見ていた記憶がある。自分はただ座っていて、机には持参した筆記用具があるだけ。皆統一された日能研の鉛筆を持っていて、唯一個性があったのは筆箱くらいだったと思う。どこまでもキモい。

 

けたたましくブザーがなり、何が起きるのか分からなかったが、それから問題用紙と解答用紙が配布され、再びブザーが鳴ると全員が一斉に問題用紙を開き始める。ああ、開始の合図なのかと周りを見て理解した。つーか事前に説明しろや。どこまでも不安にさせやがって。

 

国語からだったな。

漢字の書き取り、随筆、小説で構成されていたと記憶している。

漢字は学校のドリルでやったものだけは出来た。ところが長文問題が「これ日本語?小学生がこれ解くの?」って感じしかしなくて、読んでもさっぱり頭に入ってこない。筆者の気持ちなんか微塵も分からねぇよ。書くのに苦労しました、くらいしか思いつかないがそんなのは選択肢にあるはずがない。

でも皆黙々と回答に勤しんでいる。え?なんで皆分かるの??

挙げ句には「最も適当なものを選べ」という選択肢の問題に対して、この適当の意味を「一番いい加減なもの(テキトー)」と解釈して回答していた。しかも全部の問題に触れる事なく、回答時間は終了した。

 

そのくらい馬鹿だった。

 

算数(つっても内容的には高校で教わる数学の基礎みたいな問題もてんこ盛り)も、こんなの計算したことねぇよってくらいの5桁×5桁の掛け算の問題とか、方程式の問題(未知数をx の代わりに□に変えただけ)の計算問題にしたものや、無数の図形の中から角度を割り出す問題等があり、正直言って今の自分でも解けるのか疑問に感じるくらいエグかった。

はっきり言って掛け算のひっ算ってどうやるんだっけ?ってレベルだし(未だにそういう大人は多いんじゃないか?)手も足も出ないから問題用紙に落書きをして時間を過ごしていた。

 

理科も、でんぷんが唾液と混ざることで何に変化するか この地層から過去にどういう出来事があったと分かるか、なんて「博士かお前!?」みたいな問題が出されて「なんで先週寿司食ってたのに、今こんな事してんの?」って状態だった。

 

いつもだったら誰かから電話がかかってきて、友達と公園でゲームボーイをするか遊戯王カードで遊んでいるはずだったのに。

 

それでも一生懸命頭を使った感から思ってしまったのか、帰宅して母親に「テストは結構出来たよ!」とか言ってしまい、もらって帰って来た問題用紙を見せたら算数の冊子が落書きだらけで、いつもならば「お前は絵が上手いよな」と褒められるはずだったのに、やる気はあるのか、一生懸命やったのか、と今までに無いくらい怒られた。

 

そして翌日から俺の塾通いが始まった。朝は定刻通りに登校班という班に決まった時刻に待ち合わせをして集団で登校、帰りは石ころを蹴りながら如何に溝に落とさずに家まで転がすかをしながら帰っていたのに、塾の授業に遅れないようにと腕時計を持たされて、時間を意識して生活をするようになり、家族揃って食べる温かい夕食は母親に持たされた冷え切った弁当に変わった。

 

自分に合った塾、そうでない塾って概念は自分にも親にもなくて、ただひたすら塾通い。今になって思うのは勉強を教えるんじゃなくて、勉強の仕方を教えとけよと言う一点に尽きる。

日能研のすごいところはあれだけの大規模なテストをやっておきながら、結果が5日くらいで出るところだった。その当時の成績は下から数えた方が圧倒的に早く、ほぼ最下位に近かった。こんなに出来の悪い奴だと思わなかったと初めてオヤジから失望された。

 

教室は習熟度別に振り分けられるが、そのクラスの中でも更に模試の成績で席が決まるという鬼畜仕様。つまり席の位置で頭の悪さがバレるようになっている。

で、いっつも自分は後ろの方だった。

 

来る日も来る日も塾通い。今日は国語と社会、明日は理科と算数。暇な時はこの問題集をやっておくこと。毎日この問題集もこなす事。周りの同級生と同じ時間に起きるのに、夜は皆が寝る頃に授業が終わって寝るのは日付が変わるかどうかの時間。

 

成績はほとんど上がらなかったが、それでも何度かやっていると少しは身に着くところもある。なんで誰も「完璧な復習をしろ」と指導しなかったのかは未だに許せないところだが、まぁまぁ教え方の上手い塾の先生に教わっていると、小学校の担任の授業なんて下手な上に、教科書のレベルも低い事に気づく。

 

そのうち俺は小学校の授業をナメ始めた。「あー、これか。塾でやったわ。はいはい、それね。」みたいな感じで。本当は小学校の先生だって大学を出ていて、もっと深い知識も持っているはずなんだ。でも実情を知らない馬鹿だから、俺は担任の頭が悪いもんだと錯覚していた。

 

次第に小学校の授業では居眠りをするようになり、それでも学校のテストだけはほぼ満点だったから余計に調子に乗る。塾では劣等生なのに。

 

ある時、塾で算数の授業中に黒板に書かれた平行線の問題について「その線分を延長したら交わっちゃいません?」と質問をしたらめちゃくちゃキレられた。それがなんでなのかは覚えていないが。平行だったら交わっちゃいけない。でも先生の書いた図では、このまま線を伸ばせば直線同士が交差するのは明らかだったから疑問に思っただけなのに。

 

三角形の図だって、これよく見たら80角形くらいあるんじゃないの?とか、そういうどうでも良いことに徐々に疑問を持ち始める。

 

それが大学に入ってから哲学で習う、いわゆるイデア

の話なんだが、当時の自分にはそんな事も知らないのに高等な勉強をさせられているのが訳が分からなかった。複雑な図形から角度を割り出す問題だって、本来ならば「証明」という前提があってこそなのに、塾では「テクニック」として問題の解き方が教えられるだけだった。

つまり学問の探求みたいなものは塾には微塵も存在しないんだ。

 

もっと言えば分数同士の割り算だって、一度掛け算に変換して分母と分子をひっくり返すのに、どうしてそうなるのかなんて説明は一度も聞いたことがない。暇な時に自分なりに納得の行く考えを出して勝手に解決をしたが、それで良いのか分からないまま残酷ながらも時は過ぎていく。

 

夏が終わるまでは時間はいつも通りだった。ただ学校行って、夜遅くまで塾にいて帰ってきて寝るだけ。相変わらず成績は伸びず、どうしたら成績が上がるのかなんて一度も指導された事ない。今になって思うのは、あの当時から成績の良かった奴は授業を聞いただけで理解が出来る上に、深夜か早朝も復習、予習をしているというキモさの極みみたいな事が出来るからだと認識している。

 

「どうしてあんたは成績が上がらないの?!」と言われても、自分だって原因が分からない。ただ塾で教わったことを毎週日曜のテストに反映させるだけのルーティンなのに。そしてその頃知ったのだが、受験勉強をしている理由は入試というテストに受かるためであり、ある程度知識さえつけておけば入学後も勉強に困る事はないからだろうと勘違いしていた自分と誰も教えてくれなかった事に苛立ち、大人になっても何一つ問題解決能力が身についていないのに塾代が年間100万円くらいするという残酷な現実だった。

 

小遣い5000円をもらうために、勉強に付いていけるように頑張っていたのに、全然前提と違うじゃないか。むしろ100万円あればゲームキューブ幾つ買えるんだよとか思った。

 

日が暮れるのも早くなり、4月くらいには一緒にヘラヘラしていた塾の友達も急に真面目になってきた。メガネじゃなかったアイツもついにメガネをかけるようになった。あいつも、そしてあいつも・・・。

 

最後の公開模試(大学入試で言えば河合塾全統模試)が終わり、やっぱり成績は芳しくない状況。志望校を再検討せよ、という小学生ながらに超えられない壁を突きつけられるこの感覚。小学校の同級生はクリスマスプレゼントにゲームキューブや最新のゲームを買ってもらっているんだろうけれど、自分は太宰府天満宮のお守りと鉛筆だった。

 

そして簡潔に正月も済ませ、1月に東京の受験会場でついに函館ラ・サールの前期試験を受けることに。今まで風邪の日以外は休まずに通っていた塾。娯楽なんて毎週月曜に発売される少年ジャンプのワンピースを立ち読みするだけ。たまにコンビニで中華まんを買う事だけが幸せで、あとはずっと冷めた弁当を10分間の短い休憩時間にノートを見返しながら口に押し込むだけだった。

 

これが終われば俺は明日からゲームが出来て、放課後にサッカーをしたり公園で遊んだり出来るんだ。

 

緊張で手が震えて、自分なりに頑張ってきたつもりだったけれど見たことのない問題ばかりで結局不合格だった。

 

2月には滑り止めで数校受け、なんとか行きたくもない学校に2校受かった。一応学校に受かったんだと認められた気がして親と泣いて喜んだ。

そして2月5日。もう塾の友達も皆受験が終わっている頃だったけれど、自分は最後まで残った気分だった。この1年、休み無く小学生ながらに睡眠時間8時間も無い状態でやってきて、毎日座りっぱなしで運動不足を感じていて、緊張も吐き気もあり体調はいつもだるかった。

でもこの最終日、函館ラ・サール後期試験は体調が良かった。この日を持って全てが終わるからなのかもしれない。テストも出来たほうだと実感があった。

 

帰りに母親とどっかでラーメンを食った記憶がある。ずっとやりたかった最新のポケモンルビーを買ってもらい、帰宅した。

 

 

 

 

 

でも2日後の合格発表に俺の受験番号は無かった。

 

婆ちゃんは俺に手紙とキットカットを贈ってくれた。親族全員が俺の合格を心待ちにしていた。家族は100万も教育に金を突っ込んだ。小学生ながらに睡眠時間も削って、休みもなく勉強して、結果がこれかよ。勉強を教えてくれた塾の先生にも合わせる顔がない。心の底から死にたいと思った。小学6年生だぞ。それも来月には卒業なのに。

 

大学受験はその気になれば毎年受験出来るが、中学受験は一生に一度、その日しか受験が出来ない。勉強が出来なくて落ちる。緊張すれば結果が上手く出ない。本来は義務教育だからこんな事をしなくても公立の近所の中学には誰でも進学が出来る。むしろ受験をするのは少数派。

一番遊びたい時期なのに、全てを犠牲にして貴重な10代の1年間を勉強に取り組んできた。

 

だけど落ちた。何かの間違いだと思っていた。なんなら学校に電話しようかとすら考えた。何回見ても、何回ホームページを更新しても、俺の受験番号は無かった。

 

こうして「とりあえず行きたくもない中高一貫校に進学した」という中途半端な結果を出し、そんなところに進学して将来どうなるのかなんて考えたくもない現実が待っているという複雑な心境を抱えたまま、小学校の卒業式を迎える。

 

これでお前らとはさようならだ。中学が違うからな。

 

と、もう友達でも何とも思わなくなっていた。実際に小学校を卒業してから同級生とは会っても話していない。成人式も行っていないし、なんなら同窓会にすら呼ばれていない。

 

ひねくれて小賢しい性格になり、友達はリセットされ、小学生ながらに敗北を味わって小学校を去る。皆はホテルで立食パーティーをするとの事だったが、誘われていたにも関わらず俺は行かなかった。いや、俺だけいかなかった。

 

中学の入学式も、本当ならばこんなところ来るはずじゃなかったのに・・・。と思いながら校門をくぐった。天気は雨でさ。

校長の話はなんとなく覚えている。「初心忘るべからず」

 

 

 

いや、何もかも忘れ去りたかったよ。函館に行って寿司を食ったら人生が変わっちまったんだ。

 

遅咲きで今頃になって大学生をやっているけれど、小学生ながらに敗北を味わったあの感覚なんてずっと忘れていた。今でもたまに日能研のバッグを背負った小学生を見るが、あれは当人の同意なのかどうかを問いただしたい。いや、内心では「頑張ってくれ」と思っているが、同時に可愛そうな奴だなとも思っている。

 

今は大学は選ばなければ入れる時代になっているが、中学受験はどうなんだろうか。少子化で昔よりも競争率は下がっているのか。あの当時なんとか受かった母校の偏差値は今はどのくらいあるのだろうか。意味がないから調べないが、はっきり言ってそれなりの大学に進学するつもりが無ければ、中学受験なんてしない方がいい。でも小学生の頃から「将来は東大理Ⅲに行ってさー」なんて言っている奴がいたらキモすぎて相手にしたくない。

普通の小学生ならばパイロットやお花屋さんというのが定番だからだ。あ、今はYouTuberだっけ?

 

 

絶対に第一志望に受かる、成績がとびきり優秀で塾がタダになるってんなら大いにやればいい。勉強にだって向き不向きはある。アタイみたいに今頃になって学問に興味を持ち始めることもあるし。

 

もっとも強調しておきたいのは、塾が教えるのは美しい解法のテクニックとノウハウだけで、勉強や物事の本質を教えるようなところじゃない。考える癖は身につくかもしれない。問題解決能力も少しは突出するかもしれない。

結局は第一志望に受かるかどうか、入試の日に全力が発揮できるかどうか。

 

第一志望に落ちた身からすれば、普通の小学生にそんなプレッシャーをかけるのは不健全だとすら思う。12歳のガキで難関校に合格出来るのは、もうその年齢から頭が成熟したキモい奴だけだ。普通の奴がかけがえのない若さと時間、そして視力と睡眠時間を犠牲にして塾の環境に適応してキモくなり、無邪気さが欠如しもっとキモくなっていく。

 

無事に見事合格すれば、達成感や肯定感が生まれるのかもしれないが自分はそうはなれなかった。

 

気づけば捻くれていて、何でも疑うようになり、男子校に6年間もいたせいでキレイな女性を相手にすると未だに顔が引き攣る。全然遊ばなかったから、遊び方も分からず、成功したことがないから自尊心もない。

 

30代にもなってまだ通信制の大学に在籍している。もう将来の夢は・・・とか言っていられなくなってきて、時折中学受験のあの日々を思い出すと「どうしてこんな事になっているんだろう」と泣きそうになる。

 

未だに親の世話になっていて、小学生の頃みたいに冷めた弁当を食べる事はなくなったけれど温かい飯が食える居心地が良すぎるのか、完全に家を出るタイミングを見失った。

 

あの時頑張らなかったから?頑張れない奴は一生頑張れない?

まぁ学校、塾も含めて同級生で有名になった奴は一人もいない。調べないようにしているだけだから、なのかもしれないが。

 

寿司を食いに函館に行って夢を見せてもらった事で、こうしてニートとほとんど変わらない奴になってしまった。

 

今年の中学受験生に比べれば自分の時なんて全然余裕かもしれないが、本人の努力だけじゃ受験は受からない。家庭の環境が何よりも重要だと言い切る。どうか保護者は過度な期待による応援はしないで欲しい。自分の子どもの人生を懸けたイベントみたいに扱わないで欲しい。

受験の結果がどうであれ、子どもには夢を見させ続けてあげてほしい。わがままにさせろ、って事じゃなくてな。

 

もう18年も前の事だが、不思議と辛かった記憶は1万字も書けるのに楽しかった事は全然思い出せない。ちょっとした習ったテクニックみたいなものは思い出せたが、なんとなく義務教育をやり込んだなぁと言った感想くらいしか出てこない。この虚しさはなんなんだろう。

 

じゃ、今回はこの辺で。