いよいよ3日後だ。
雑談
大学生活が終わる。4年間・・・いや、嘘だっ!5年間の学生生活だった。
明らかにコネで入社した新しい上司が使えない、このままこの会社にいるのはヤベェ、そう思って何か逃げ出す良いきっかけは無いものかと考えて導いた結果が大学へ進学することだった。
日本大学通信教育部。
志望の動機さえ書ければ受かる大学。しかし、いざ入学してみると下はアルファベットが全て言えないレベルの奴から、上は予備校講師まで様々だ。入るのは誰でも出来るが、学習内容は日大が提供しているので、言うまでもなくどんどん脱落者が出てくる。
入学直後、駅からキャンパスの桜の咲く通りには、そんなもん知るかと言わんばかりにスマホを凝視して歩いていく奴ばかりだった。志望校にも受からずここに入学した奴もいるんだろう。スマホを見ている姿が一層うつむいて見える。
桜が満開の頃、旗地に無理やり建てたような変な構造のビルキャンパスは人が多かった。
だけれども、ゴールデンウィークが明けると15%の学生がいなくなった様に思う。それでも2年生の終わりくらいまでが一番友達もいて、よく遊んだ人生だったと断言出来る。
前期の試験が終わり、あの科目は単位が取れただろうかと初めて不安になる。Twitterの大学生界隈のコミュニティでは、全部単位取れていたよ と言った報告が相次ぎ、自分も「ああ、単位を取るってこんな感覚なんだな」と、前に通っていた8年前の大学のことをちょっと思い出したりした。
長い夏休みを経て、後期になると更に学生数は20%くらい減っていたように感じられる。真面目に転籍(通学過程の学部に編入するための試験と手続き)のために頑張っていたアイツ、遊び呆けていた何しに来てるんだか分からない奴、アタイみたいな精神病を患った様な人は「ああ、そんな予感がしたな」と、的中させるかの様に消えていった。
どういうわけかボッチは案外しぶとく休まずに来ていた。
この大学では特に単位が取れなくても学年は一年経てば勝手に上がる。2年生になると、仲の良かった志の高い友人は法学部に転籍した。自分も1年の頃に30分だけ「商学部に転籍するか」迷ったことがあるが、いつ体調が悪くなって通えなくなるかわからないし、やはり自宅でも勉強出来る点も考慮して通信でやっていくと決めた。
2年生だと、後輩が出来る。この大学で唯一頑張らなかった科目が政治学なのだが、その初回の授業前に新入生がこの大学について分からないことや不安が多いから相談に乗って欲しいと、向こうからお願いをされたことがある。
まだ若い10代だろうけれど、話していると「実は発達障害で・・・」ということが分かり、新年度が始まって溢れかえるキャンパスにいるのは、過去にいじめられていた経験も相俟って来るのが怖いという理由で、ものの一週間で来れなくなり、消えた。
この2年生の頃が多分人生で一番勉強した時期かもしれない。一年間で48単位を取得し、ヴァイトは週に4日、一日辺り平均7時間労働をこなした。
後期は朝9時の1時限から、5限後の夜間授業が終わる22時近くまで一日の半分以上を大学で過ごすようなハードなスケジュールもこなしたりした。あの頃のアタイは自分でも不思議なくらいに頑張っていた。
ニコチンとカフェインをフルに摂取し、寿命を削って単位を稼いでいるあの感覚が楽しかったのかもしれない。
学びたかった授業は全て2年の内に単位を習得していた。
元々そういう予定だったし、3年からはちょっと気になる科目を2講座くらい受けて、あとは自宅学習を経て単位認定試験を受ければいいやと考えていたからだ。
通信教育部のキャンパスには、その単位認定試験の過去問が揃っている。イケそうな科目を徹底的に調べ、過去問を確実に1時間で回答出来るように訓練すれば大概受かる。そうすれば4単位になるし、学費もキャンパスに通うよりも2万安くなる。
何より横浜から市ヶ谷までは通学時間が90分もかかるので、その時間が惜しいとすら思っていた。そうじゃなくても普通の文系の学生ならば、学年が上がるに連れて取る授業も減り、就活や資格の取得に励む時期だから当然と言えば当然だろう。
週に1度だけ哲学特殊講義というのを受けに行くだけの学生生活。1年の頃はあれだけ友達がいたのに、この頃には20人を切るくらいにまで減っていた。
3年も終わりに近づいた年明け頃からコロナウイルスが流行りそうな兆しを見せ、後期のテストを終えて以降、現在に至るまで一度もキャンパスには入校していない。
4年生になっても、やることは簿記(一番社会で役立つ科目は卒業間近に取った方が実力になるだろうと判断したため)と統計学くらいで、この学年から初めてオンライン授業という、ある意味通信制大学っぽい学習環境に至る。
なんせ自宅には膨大な参考資料と書籍が溢れており、試験も自宅で受験が可能となれば、回答に1週間くらい時間をかけても良いのである。そういうわけで、ある意味コロナのお陰で統計学の単位が取れ、秋には卒論のフィールドワークと称してgo to トラベルを利用して下呂温泉に向かった。
取得した単位は120単位。あと4単位、卒論を残したところで唐突に「このまま卒業してもいいのだろうか?」と悩み始める。ヴァイトこそしていたものの、就活もせずにただ卒業を待つのみ、それで良いのだろうかと。
何かこのまま卒業するのは勿体無い気がした。緊急事態宣言が発出されたりして、世の中に絶望と不安が立ち込める中、もう一年だけ十分に考える時間があっても良いのではないだろうかと思い始めたからだ。
こうしてあっさりと留年を決め、タイミング良く政府からも給付金が10万円振り込まれたことで、タダで学費がまかなえた。(日大通信の年間授業料は10万円。ただし、講座を受けに行くと1講座につき1万円かかるシステムになっている。自宅学習で単位認定試験を受ける場合は受講料はかからない)
三原は留年した。そう言うと、ださいイメージがあるが、格好良く正当化して言い換えるならば、一年間の自由と考える時間を買った とでも言い訳しておこうか。
自粛が続き、より一層遊びに行かなくなったアタイには貯金があり、7月頃には今の東京の下町の方で暮らすようになった。
1人でじっくり静かな環境で考えることが出来る。人生で最も欲しかった状態かもしれない。
ヴァイトと図書館、そして銭湯を行き来するだけの生活。資料を集め、なんとか締め切りギリギリに提出した卒業論文。
3月に卒論の判定が出て、めでたいことにS評価を頂いた。まぁ大学の勉強は結構したな、そんな感覚だった。GPAは3.02
本当は3.2くらいあれば院進も考えていた。そこまでは及ばなかった。
いよいよ25日は卒業式。天候は曇のち晴れ、らしい。5年間在学というのは長いかもしれないが、やりたい事も見つかり、これからどうなるかも良く分からないけれど個人事業主として開業するのは、去年卒業していたら考えつかなかったことだと思う。
それに賃貸の契約だって学生じゃなかったら、審査が降りなかったかもしれない。一年留年して「学生だから」という肩書を使い倒せたことは良かった。月収10万で生活している貧困障害者、10年前は一日の半分以上を寝て過ごしていたのが、やっとのことで大卒にまでなれたのだから、自分にとっては大いなる成長だった。
亡くなったお爺さんに卒業を報告しに行きたいところだが、コロナ禍でそれは叶うのか。基本的には学費もアタイ自身で出してきたが、困った時に助かったのがお爺さんの残したお金だった。
結局最後まで「一緒に勉強を頑張れる様な仲間」は現れなかったのだけが残念でならないが、キャンパスライフっぽいことも、コロナ禍でのリモート授業も経験出来たのは良かったのかもしれない。
去年はどうだったのか知らないが、今年は武道館で卒業式が行われ、1時間と短いながらも祝賀会もやってくれる。1人だけ存在する気の合う友人と共に卒業が出来ることを嬉しく思う。もう大学生活でやり残したことは無いだろうか。卒業まであと3日ある。というか、あと3日しかないのか。。。
ってなわけで、
アクティブログ(活動記録)
卒業式に参加するには、事前に申請をした上で毎日体温の報告をネットでしなければならないのよ。まぁ毎日やっていれば、習慣にもなって忘れずに出来るんだけれどさ。
これが不思議なところは、日付が変わった瞬間にその日の夜の体温も入力できちゃうところなのよね。果たして日大が「何故アナタは午前中に、午後の体温も分かるのですか?」とツッコむことが出来るようなシステムを組んでいるのかは不明だが、その辺りはどうなっているのかしら。
ここまで周到に仕掛けてくるとは思えないし、思いたくないけれど。
まぁ、いずれにせよこんな建前だけの健康観察に対しては、日付が変わった瞬間に午後の分も入力して登録しちゃうわけよ。
それに加えて任意で「午前/午後は何をしていた?」と簡潔に書く欄があるのね。
この辺りが非常に微妙なところで、アタイはとりあえず「読書/労働」としていてさ。
ただ、これも自己申告なので、実情は誰にも分からないのよ。
さて、遡ること今月20日。弟の大学卒業式だった。アタイには弟がいる。絵に描いたようなクズで、まぁクズなのよ。(トートロジー)
ソイツに5日も先に卒業されたのはともかく、この日はアタイ、弟、母、母の姉で集まったのね。
アタイは卒業祝いと開業祝い
弟は卒業祝い
母親は誕生日が近いから、その祝い
母の姉は海外に移住するからその送別的な意味で
それぞれの門出があって、曜日も日曜だから集まることができたわけよ。ええ、コロナ禍の会食です。すみません、っていうわけだ。
「もうこれから感染しても自己責任な!!」そういう前提でやっているわけよ。万が一重症化したら医者に迷惑をかけてしまうけれど。
室内ではなく、テラス席でご馳走を堪能したわ。9000円もするシャンパンのボトルも開けた。場所は港区白金高輪。憧れの港区女子に近づいた気がしたわ。まぁアタイは一円も払わなかったけどね。
ここ最近スパゲティだけで凌いでいたアタイは嬉しかったよ。そうか、月収10万じゃこういうレベルの飯は食えないんだな、って良く分かった。もしこのまま所得が変わらなかったら、こういう食事はこれで最後になるかもしれない。
ちなみに体温記録の方には、この日にやったこととして「読書」と書いておいたわ。
実はアタイは少しお金に困っている。卒業式後に友人と飲みに行く余裕がないくらいに。
親に聞かれたから、そう答えたのよ。「時間ならたくさんあるだろう、もっとヴァイト入れろよ、働け」そう怒られた。
そして情けをかける様な目で1万円を貸してくれた。申し訳ございません。
解散後、LINEから親に「1万かしてくれてありがとう」とメッセージを送ったのよ。
そしたらその数分後に「これは卒業祝い金です。今まで自分で学費を納め、よく頑張りましたね」と返ってきた。
アタイは泣いたね。自分の惨めさに、力の無さに、親に対して何もしてやれないことに。
情けない息子でごめん。自立してもやりくり出来ないクズでごめん。卒業式後に飲みに行くことすら出来ない稼ぎの自分がとても悔しかったよ。
幸せを祝う日なのに、アタイは1人帰りの電車の中で、おばさんから不要となったので貰った電子レンジを抱えて泣いた。
何から何まで貰ってばかりで、一向に恩返しも出来ない。自分が生きていくだけで精一杯。貯金も出来ない。
このままでいいんすか?
不意に前に通って中退した大学の友人の言葉がよぎった。
たかが大学を卒業するだけで常人よりも10年かかった。気づけばもうすぐ32歳。貧乏を肯定化することで自分を安堵させていた。困ったら誰かが助けてなんとかしてくれるだろう。
そういう考えはもう辞めよう。
感謝の出来る人間になろう。謙虚になろう。精神病に甘えるな。起きている限り働け。体力の限界まで日々活動しろ。
親の期待を裏切り続けて、ようやくこの齢で卒業式を目前に控えるところまでやってきました。親を困らせるのは、この日を最後にします。