三原氏物語

賢くて可愛くて、誰もが憧れる無敵の障害者を目指すアラサーの闘病記

てめぇの妄想は金になるのか?!出来る理由が見当たらないっ

身体同一性障害。

【雑談しかしない ネガティヴ注意】 自分の体の不要な部分を挙げてみて? そんな質問をするのは、世界を探してもアタイか闇の外科医くらいしかいないだろう。裏社会ならばよくあるのだろうか?いや、関わりたくない。

例えば髪の毛がいらないならば、スキンヘッドにすればいい。毛は簡単に処理できる方だ。天才バカボンというギャグ漫画に、目は二個あるから、腕も二本あるから、一つずつでいいのだー なんて言いながら、余計なものを削いで行って最終的にダルマの様な状態になって「これでいいのだー」とオチをつける話があった。

肉体や臓器ってのは、必要があるから備わっているわけでそれを敢えてこちらの意志で削ぎ落とすなんてのは、誠におかしな話ではある。多分頭以外は五体満足で生まれたアタイ。いや、呼吸器は弱かった気がする。それなのに大人になるとこれでもか、ってくらいにタバコを吸い始めたのはまた疑問が出る。

まぁいい。 人間の脳みそには「自分の体の領域はここまで把握している」っていう、謂わば地図があるらしい。ところが身体同一性障害ってのは、その地図の部分が一部欠けていて、例えば自分の左腕は元々存在しないものなんだ、付いていて気味が悪い、ずっとそんな悩みを抱えていた。なんていう事例。最近読んだ「私は既に死んでいる」という特殊な精神の病の実情集みたいなものに載っていた。ちなみに統合失調症もそこには記載されていたが、どうも自分の思っている感覚とは違う。

前に通っていた大学を辞めるまで、アタイは常に頭の中に雑念が湧いていた。だから国語や大学受験レベルの英語となると、読解中に思考に邪魔が入って内容が全く分からなかった。

不思議と地理だけは得意だったから、ならばと言う事で付け焼き刃の数学と、未だに微塵に理解出来ない物理の公式だけを頭に詰め込んで国立大学の入試に臨んだのは、親でも知らない。

色々な思考の支障を来して、20歳になってついに精神科デビュー☆

未知の精神病だったら、これから医学部に付属する病院に隔離されて、それなりに苦しみながらも国民様の税金で生涯スタッフ達が解明に挑んでくれたんじゃねぇの? とかサイケデリックな期待感を抱きながら診察室の扉を開いた記憶を思い出した。

ほんの少しの簡単な質問のやりとりをしていたら急に目眩がし、ゲロを吐いて倒れた。多分アルコール以外では初めて意識を失った瞬間だと思う。最初で最後にしたい。

そのあと付き添った母親が医者に何か色々と話した挙句、統合失調症という100人に一人が覚醒する精神障害と診断された。

自己啓発書がよく言う「若くて肉体的にも頭脳的にも人生のピークである20〜25歳」の4年間くらいを、薬漬けにされてずっと自宅のベッドで硬直して台無しにされた。

就職をし、まぁこのくらいの程度まで回復してきたから大丈夫だろう。自分の時間が欲しい。失われた4年を取り返したい。頭も少しだけ、雑念が消えたし。

それで時間を買うために人生で二度目の大学の入学式をくぐり、現在に至る。割とこれでもネガティブな妄想は減ってはきたものの、健常者の感覚を推定しながら言わせて貰えば「常に寝起きのような頭」で、勉強に挑んでいた。

仮に変な思考の障害が生まれつき無ければ、本来は東京海洋大学に入学し、ロジスティクスを3Dで視覚的に管理できる基礎みたいなものを勉強する予定で、9年前からARを用いたいとは既に考えていたが、今や手元のスマホで平然とマーカーも無しに実現ができるので、もう2018年の今になってやりたい事は完全に後発的になってしまった。

話は逸れたが、周りよりも8年遅れて大学生になった本当の理由は「自分の時間を買うため」だった。もっと言えば、何の進展もないまま立場だけ偉くなった事務員の肩書きを捨てて、失われた4年を今取り返したい!それだけの理由で大学に入った。

この大学はたまたま志願書だけで入学が出来て、学費も安く、たまたま広告とマーケティングに精通をした教授がいらっしゃり、通信だから最悪具合が悪くなっても通わずに勉強が出来る という完全に自分にとって都合がいいだけの大学だから入った。

ここで話は9年前に戻る。向精神薬を飲み始めて、しばらくの頃だ。この頃は兎に角だるくて、1日の活動時間は4時間とかナマケモノにも失礼なレベルで何もしないで過ごしていた。いや、何も出来ないんだ。

今でこそ生産性なんて言葉が目立ち始めたが、その5〜9年前は、ほぼ飲まず食わず(薬を飲んではいたが)で、寝てばかりで文字通り生産性もない、ただの心臓を動かすだけのマネキン状態だった。

その当時はやたらに世界のボリュームが大きかった記憶がある。つまり、極端に耳が聞こえすぎるのだ。見た目は布団に横たわるマネキンではあるものの、頭の中は名画ムンク「叫び」のような状態。誰も殺してくれないし、自分も死のうにも体が動かないという現状で、ひたすら心臓が止まるのだけを祈って横たわっていた。

ここで一区切り

毎晩定時に薬を飲む。どうもその時にカップを持つ手、或いはパッケージから薬を取り出す時の手の双方が震えている事を母親が指摘した。特に痛くもないし、いいんじゃね?不都合もないし。 そんな感じで日々を過ごしていた。

徐々に活動可能時間は増えてきて、就職をして事務員になり、肩書きも給料も貰えるようになり、何を考えたのか、武道を始める。健康な肉体には健全な精神が宿る。あれは絶対に嘘だと思う。 前回の記事にも書いたが、本音では「疲れるから負けてもいいや」で臨んだ試合で、見事に準決勝まで進んでしまったのだ。もしかしたら、この緊張感の無さが良くも悪くも勝敗を決めたのかもしれない。

稽古では道場の指導陣にも手の震えは指摘された。取り敢えず「俺、実はジジイなんすよw」とか言いながら取り組んでいた。

大学への入学と、親にも会社にも完全に納得の行く理由で退職をし、マネキンの頃に味を覚えた唯一の楽しみであるコーヒーを、徹底的に学び、極めようと思っていた。 同時にどうすれば無理をせずに無理をしながら勉強や出席が出来るのかを1年生という立場を利用して自らの行動を実験していた。

一年生の5月。ちょうど誕生日に、喫茶店のウェイターを始める。本当は自分の手で淹れるコーヒーが仕事に出来るのだと思って申し込んだのだが、新人はまず飲食物をお客様に運ぶのが仕事だった。

たかが皿(ソーサー)に載ったコーヒーカップをお客様のテーブルに差し出すだけの簡単な仕事だ。商品名の用語と、テーブルの番号さえ覚えれば、何も苦労のない、その割には時給が良くて楽な仕事だと思う。

しかしどうも自分が差し出すコーヒーは、やたらスプーン(シルバー)やカップが振動をしてカチャカチャとうるさく、挙句にはお客様にお盆から品物を取ってもらう、なんてウェイターとしては有り得ない状況になってしまった。

店長は裏で働いているから、こちらの状況は把握していなかった(と思う)のがまだ救いだが、「絶対にいつかお客様にコーヒーをブチまけるか、食器を割ってしまう」と判断をし、丁度入社から1ヶ月後に退職。

周りも自分の事を把握していなかったから、まだ辞めた罪悪感は少ない。

そして1年の前期が終わり、今度はウェイターをしなくて済む、カウンターからコーヒーを提供するタイプのチェーン店に雇って頂いた。 ここの部長には一生ついて行きたい、何が何でも3年間は勤める、そう決意して仕事に取り組んだ。

ここでは毎度毎度何かしら些細なミスを犯し、「へへ、すんません」みたいな感じでいつも申し訳ない気持ちでいっぱいになりながらも、多分裏で何か悪口を言われているだろう事も察しながら、働いていた。

一応それなりのコーヒーの知識はあるので、豆の販売や飲食物以外の商品を売る事に周りより若干長けている、それだけのポジションは得られた。いや、それだけがやり甲斐だった。本当はお客様に、自分の作ったドリンクを飲んでいただける、それが何よりも嬉しかったのだが、販売以外は全部初心者未満の能力だったので、なかなかそういう機会には恵まれなかった。

なんでこないだ言った事も出来ないの!?といつも怒られながらも、「へへ、すんません・・・」とか言いながら1年続けてきた。ミスは減った。一応仕事は全部周りよりかは遅くてもこなせるようにはなってきた。

思えば精神障害者が障害を隠して(多分隠しきれていない)1日12時間も平均で働いていたのは、9年前の自分からしてみれば大した飛躍だとは感じる。 完全に大学では宗教にハマった信者のように「ウチのコーヒーはすげぇんだ」と豪語をしていて、多分煙たがられていたと今になっては反省している。

最早「コイツからコーヒー屋取ったら、何が残んの?」そんな人間になっていたと思っている。極力労働の大変さは表には出さないようにしていたが、そう上手くは行っていないだろう。

入社時に比べれば、まだ仕事は出来るようにはなった。とは言える。まだミスは減った方だ。

その一方で、向精神薬の副作用による短期記憶の絶望的な欠如と、手の震えは進行していた。

実は医者や親、もっと言えば大学の友人や職場等、誰にも悩みを打ち明ける場は存在しない。 二度ほどこっそりと学内のカウンセリングを受けたこともあるが、時間の浪費にしか感じられなかった。

良く親父には「てめぇの妄想は金になんのか?!」と言われ、如何に認められるかを毎日模索しながら、仕方なく生きてきた。そして誰も統合失調症の現状なんか理解出来ないところに、もう諦めを感じていた。

大学でも立場的には年上だから、周りには相談するのも情けないという変なプライドがあり、母親だって病人の親でありながら統合失調症なんて微塵も理解していない。取り敢えず薬飲んどきゃその内治るだろうとでも思っているんだろうか。一生治らねぇよ。

常に寝起きのような頭で、ミスを犯さない方がおかしい。12時間も働いていてレジの金銭の誤差が生じないなんて不可能だろ。

まぁ理解者はいないからこうしてブログを書く事によって、私はここにいる!と情報を発信しているものの、あまり賛同がなく、誰も自分に興味がなく、そして妄想は金にならない事を深く理解した。

ただでさえ、周りに噂をされているような不快感がつきまとう、この妄想は一生取り除く事が出来ない。もうコミュニティにいるのが嫌になった。どうも表に露出をすると、嫌な感じが後を引きずる。

そしてついに現在手の震えがピークに達した。職場では「何故手が震えるのか?」と3人くらいに指摘された事がある。そこでもやっぱり「ジジイだから」「かじかんでいて・・・」とコーヒー屋なのにお茶を濁すような返事をしていた。

なんとかペンを握って文字を書く事が出来、固いキーボードならばタイピングがやっと出来るレベル。スマホの操作なんか、スムーズに出来たもんじゃない。コピペをするだけの作業に、3回連続でペーストをしてしまって処理に苦労するような現実。

ストレスだけは蓄積されていくのでタバコを吸うのだが、明らかに火をつける時に手が震えるのは、何かの薬をやっているようにしか見えないと思う。誰だってそう思うよ。きっと。

最早職場では、とてもお客様に飲んで頂けるようなドリンクも作れず、回転率の高い店でスピードと正確さを要求される業界で、カウンター内にいても戦力外になりそうだし、更に言えばお客様からお金を頂戴して提供出来るような資格も自分には無いと判断し、退職を決意した。

ちなみに自分が作ったサンドイッチが、他のスタッフに作ってもらったものよりもどう考えても不味いのは、幾ら考えても改善ができない。

丁度新人が複数入り、周りのスタッフもちらほらと辞めていくのでこの流れに乗って自分も「退職します」と宣言をしたら、何故か自分だけが3ヶ月の休職を宣告された。 LINEの業務連絡では定期的に新商品のオペレーションが入り、手が震えるのに返信が出来るのも変なのかなぁとか思いながら10時間くらいしてから既読スルーを続けていた。

こういう中途半端な立場が一番嫌なのに、なんで退職届を発行してくれないのかがもどかしい。

ここで冒頭に戻ると、自分はもう手の感覚がほとんど無い。自転車に乗る時に考えながらペダルを漕ぐ事は普通しないだろう。流石に28年一緒に生きてきた手だから、考えなくても動きはするが、慎重、精密さを要求される細かい手の動きは不可能に近い。

限りなく自分の手がその辺の科学博物館のロボットに劣るレベルで動かすのがやっと。なんで人工知能が人間にアプローチしているのに、自分の肉体がアンドロイド化しているのだろうと、不思議でならない。

あまり痛覚もなく、つねっても痛く無いし、お湯を触って手を引っ込めるのにも1秒かかるくらいだ。もう自分の頭の中の地図から、両腕、もっと言えば肘から先は消されつつある。

なんか今ならば上手く止血をすれば痛みもなく腕を切り落とせる自信があるし、高校生くらいまで漫画家の仕事に関わってみたいと思っていたこのアホの手は、今までのイラストの練習量を全て否定するかの様にペン先に魂を込める事も出来なくなってしまった。

自己補正がかかっているのか、自分の淹れたコーヒーは「まだ」美味しく感じるものの、それが人様が飲んでくださるような商品なのか保証も出来ず、頭も腕も、実は誰にも明かしていないが階段を降りる時に膝が震える脚も、

もう自分に正常な箇所は存在しないんだ。

としか言えない今、昔は唯一の切り札だった「若さ」も使えず、社会のお荷物になろうにも障害年金生活保護も貰えず、自分に出来る事は何か、必死に考えた(医者的にはこれも妄想)結果が、再びマネキンに戻って死を待つ事しか出来ない状態になってしまった。

座右の銘で「最底辺から最先端へ」を豪語していた。何も最先端に触れる事が出来ずに、何一つ成し遂げられずに、全身不満足状態で、肉体も頭脳も痴呆老人化した自分がしてやれることってなんなんだよ。

こんな最底辺の人間、生産性のない心臓を動かすだけの存在が生きている権利なんかあるのかよ。と社会に問いたい。もう死ぬ事を考えられないように薬で気分をごまかし続けて生きて行く、偽りの延命措置で無駄に生き、何も進展せずに衰弱していく人生ってなんなんだろう。

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