三原氏物語

賢くて可愛くて、誰もが憧れる無敵の障害者を目指すアラサーの闘病記

なんで友達がいないの?ってそりゃアタイが飛び切り変だからよ

発言には気をつけろ。

 

雑談

発言が墓穴を掘る。こういうのはよくある。なのでそれを防ぐためにそういう性格というか、思考回路か、育ちの影響なのか帰納法的にしゃべるような気はしている。

 

それでも論理が飛躍することはしょっちゅうで、真面目に納得の行くように会話をしていても相手が理解出来なかったり、論破されることも。

統合失調症とかいう厄介な脳のバグを患っているため、その性質上支離滅裂な発言になるらしい。

 

いや、らしい。って書いたのは自分ではそうは思っていないからだ。ただ客観的に見ると「こいつ訳わかんねぇ事言ってんな」となるから、まぁそうなんだろう。

 

一時期流行った画像で統合失調症の症状を面白おかしく馬鹿にしたのがあって、

そのイラストの発言が確か

「今日は晴れですね。晴れと言えば僕の誕生日は5月だけれど君はお肉が好き?」みたいなのが支離滅裂な発言 とか言ってツイッターのタイムラインで酷使されていた時期があった。

 

それを改造して色々な会話の破綻した画像が作られていたけれど、なんとなくこの意味不明な発言がアタイには何を言っているのかが理解出来るんだよな。ただ理解は出来てもそれを言語化するのは難しい。

 

自分はここまで酷い支離滅裂な発言はしていないとは思いたいが、やっぱり普通の人からすれば「気味が悪い」という感情を抱くんでしょうね。

 

そうしたコミュニスが整わない、論理のステップが相手と共有出来ていない状況を防ぐために極力アタイは順を追って説明するわけだよ。すげー疲れる。

 

よく「三原は普段黙っているのに、喋ると話が長い」とか「なんでそんなに長文のブログが展開出来るの?」とか訊かれるんだけれど、それはもう簡潔に言えば

「お前らが理解出来るようにこっちが頑張って歩調を合わせているんだよ」に尽きる。

 

関数の計算問題の解説に近いかな。

慣れない記号を用いた数式を解くのに、解説を読んでもどうしてこの式が次の行ではこうなるのかが理解出来ない、ってのが少なくとも高校くらい出ている人間ならば一度くらいはぶち当たる経験があるでしょう。

 

あれを苦痛と感じ、乗り越えられない奴が文転して行くんだと高校の頃に感じたが、要は問題の式を見た瞬間に展開しなくても答えが分かる奴と、見開きのページで長々と書かれた解説を読んでも一切理解出来ない奴、なんとか理解できる奴と分かれるじゃん。

 

それの言語バージョンですよ。

 

話の流れを説明するのをセミナーとかだと歩幅に例えたりしているじゃん。

アタイは大股で歩くけれど、大概の人は歩幅が短いからついていけなくなるんだ、みたいな。

 

だから結構回りくどい言い方をしがちなアタイにもちゃんと理由があって、目出度く統失デビューしてから真剣に病気の症状を学習し、普通の奴とこんなに齟齬が生じるんだ!ああ、生きていくの辛いねー面倒くせー! ってのを十分に理解した上で「大体こういう風に喋れば相手に伝わるのかな?」ってのを10年間試行錯誤し続けて、ようやく今の喋り方を体得したわけだよ。日本語の再学習みたいなさ。

 

それで冒頭に戻って「発言が墓穴を掘る」って話には、例えばSNSで文字数制限がある場合にどう言葉を選べばいいか悩んだ挙げ句、その上辺だけを観測した観測者が勝手に機嫌を悪くしたりするんですね。

 

140字で簡潔に書け。

って、中学受験の入試問題みたいな話じゃないけれど、言葉を選ぶとどうしてもそこに齟齬が生じてしまう。

 

あまり長々とプロフィールが書けないので、

読者様の記憶にあるようなキャッチコピーだと

・天国に最も近いコーヒー抽出士

(→これを見た親は、血縁の奴らが「アタイが死ぬのをほのめかしているように感じるからやめろ」と勘違いをする。実際そういう意味も少しは含んでいるが、まるで極楽浄土で飲むような安らぎを与えるコーヒーを淹れる人 って意味の方が真意だ。

もともとコーヒーはキリスト教では悪魔の飲み物とされていて、それが地獄とは真逆のポジションの天国に近い、そんなコーヒーを淹れたいという背景もある。

あとは遠回しに死に近いコーヒーを淹れる人ってどんなだろう?という興味を持ってもらうためのワードとして選んだってのもある。

そして字数の関係で割愛しているが本来は「快晴の青空のような一杯を追求する」とある通り、広大な空のように澄み渡った爽やかさと、天国っていう脱力感(大体ドラえもんとかで見る雲の上のふわふわした世界みたいな)が本来の目的で、

これらを総括して1行程度で表した結果、こうやって誤解が生じた)

 

他にも座右の銘としていた

・最底辺から最先端へ(From bottom to the top!)

  (これも部分的に掻い摘んだ観測者が最底辺をどうも「日本大学通信教育部」と勘違いしたらしく、勝手に機嫌を悪くしていた。一応言っておくが無試験で名前と作文さえ書ければ受かるこの大学でも上は元国家公務員やTOEIC満点の予備校教師、下はアルファベットが順番に言えない奴から90分間じっと座る事の出来ない残念な奴まで実に多様性がある。そしてこういうアタイみたいな訳のわからないもっと残念な奴もいる。

ここでの最底辺ってのは資格も学歴も職歴も無い上に障害者で、障害年金も貰えずブラック企業でバイトに打ち込んでいるような立場の自分の事を指しており、

最先端ってのは新しい学説や論文、技術などを理解出来て使いこなせたり触れたり出来るような意識の高い自分へ向かってがんばろー みたいな

長い説明をたった9文字に要約した結果、こういう齟齬が生じた。)

 

ちなみにせいぜい身近にある最先端はApple製品のみで、金で手に入れられる技術なんだが肝心のデバイスを操るアタイの頭は以前変わらず最底辺のままだ。

 

そんなわけで一部の人間が機嫌を悪くするのはもう、面倒なので文句を言われたら表面上は速攻で謝るけれど実際は何も反省していないし「ちゃんと発言の過程まで推測した?」と心の中ではほくそ笑んでいる。

 

大体俳句だって5,7,5の短文の中にめちゃくちゃメッセージ込めるじゃん。季語とか折り句とか係り結びとか。それと本質はなんら変わらねーわけよ。

決定的な違いはアタイの書く文章は美しくなくて、読むと不快になりがち ってところだな。

意図的に不快にさせているわけではない。

 

まぁ幸い炎上はしたことないのだけが救いなのかな。逆にバズる事もないけど。

 

 

ってなわけで、

 

アクティブログ(活動記録)

一昨日木曜に遡る。

渾身の焙煎したコーヒー豆をパッキングし、初めて会う友達に無事渡す事ができた。決してダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうかSNSに出会いを求めるのは間違っているだろうか っていうテーゼじゃないが、

 

今までツイッターで仲良くなった人と実際に会ってみて後悔したことは一度もない。

 

(あ、Twitter経由で仲良くなった大学の友人はハズレが多い。こういう事書くから嫌われるんだろうな。別にアタイが嫌いなんだから、嫌われたっていいんだけどさ。どうせ後半年後には解散、もとい卒業しているんだし)

 

Twitter以外で知り合って後悔した奴ならば、飲み会の幹事と仲良くなって後にスナックを始めたというから遊びに行ったら見事に予算制約線限界まで金を使わされた事くらいだろうか。なお、この時の効用は最低状態だった。経済学的におかしな体験である。

 

と、会ってみる事に新たな刺激を受けるわけですね。

年に一回くらいこういう事してんのかな。もちろん好きでやっているのよ。

別に彼女を作ろうとかそういう下心は無いわけね。大体会う人皆恋人がいたりするし。(詳しくは聞かないし、あんま興味ないから知らん)

 

色々話す事が出来て楽しかったので、またお話したいわねー なんて言ってくれてアタイ嬉しくなっちゃうじゃない。

 

たまに会う友達が出来るってのは結構貴重なのよ。普段誰も遊びに誘ってくれないし。

 

 

翌日金曜。

確か雨が降っていたと思う。しかも出勤時刻ギリギリまで寝ていて遅刻しそうになった。

いつもは2時間くらい早く来るんだけれどな。最近お前来るの遅くない?とか言われるようになった小売のバイトだが、単純に早めに来てカフェでコーヒー飲んで意識高そうに読書をしているよりも、自宅の方が能率が良いとやっと実感出来るようになってきたからだよ。

 

なんなくバイトはこなしたけれど、その労働内容は覚えていない。木曜が楽しすぎたからか?

でもネットワーク上には勤怠の記録が残っているはずだから、多分働いていたんだろう。

問題は21時に退勤したその後よ。

 

ええ、パン屋に契約更新に行くことになりましてね。

12月からの再開でもいいよー みたいには言っていたけれど、週2で入れないと店としてはやっぱり厳しいよな。こっちは週に4日以上働きたくないんで、なんとか「2週に1回じゃ駄目か?」と尋ねてみたが、目まぐるしく変わるオペレーションについていけないのも正直なところだったので、残念ながら契約は更新しなかった。

 

ええ、つまりカフェバイトを退職しました。

 

退職するかも、したい、しようかな、なんて言っている間に現場に着いてやっと何かが吹っ切れたんでしょうね。

大体3年間は続いたのかしら。長かったような短かったような。学生でのバイトをそこに全力を注いできた感じもあったので、やり切った感はある。でも三原はもうここまでだ。

 

ふむ、#リッチな朝食シリーズ もこれで終わりかな。

そう思うとなんだかこれから毎朝何を食べれば充実するのか分からないわね。

 

また縁があったら雇ってくれるとは言ってくれたけれど、アタイのいない現場での本音はなんと言われているのか知ったこっちゃない。

店は忙しいのに変わりはないのは凄いが、緊急事態宣言後に再び仕事に就いてから「三原、入ってくれ!」と言われるような事は一切なくなったし、新人の方が仕事が出来るようになってきた。その上レポートに追われてしばらく出勤しない内に「なーんだ、俺がいなくても店回るじゃん。売上も良さそうだし」と気付き始めてから、途端に今まで頑張ってきたのがどうでも良くなった。

 

今の小売とは違って理不尽な客を相手にするのは、もう精神的にも無理かもしれない。

だいたい健常者の若い奴ですら2周間で消えるのもザラなのに、障害者のアタイがこんなに続けられたってのはある意味異常だとも思う。使えたのかどうかは別として。

 

このカフェの退職を以て、三原の喫茶業は終わりを告げることになるのだろうか。

本当に心の底から「お客様に素敵なコーヒーを提供したい!」と思っているならば多分今こうしてブログなんか書かずに次のバイトを探しているはずだ。

 

ドトールの頃から、どこか自分には喫茶業に足りない要素を感じていた。手際の良さ、スピード感、接客、、、、

 

なるべく毎日通勤途中の電車の中でどうすれば今日はもっと良くなるだろうかと考えていたけれど、もうそれも疲れてきたのかもしれない。

 

お客のあらゆるワガママを叶えるのがバリスタの使命だと思ったけれど、自分には規定量通りに作って提供することすら難しかった。

だから誰にも負けない商品知識だけはあって、売上は誰よりも伸ばしていたと思っていた。

別に時給を上げるとかそういうのを目的にしていたんじゃなくて、単純にそれがやり甲斐だと感じていたからよ。

 

ところが昨日、書類にサインをし終えた瞬間に、そういう努力は辞めたら何も残らないんだなってのが理解出来た。多分店側からすればアタイなんか「昔はあんな奴もいたかな」程度の存在だと思う。

 

所詮はバイト。

笑顔で商品を渡して、お金を受け取るだけの仲介業。

どれだけ戦力だろうと、辞めたらそこで「頑張った記憶」が残るだけ。

アタイは辞めた。会社は新しい人材を募集する。で、また誰かが辞めて誰かが入ってくる。

その繰り返し。

 

小売のバイトで大体毎月決まった額を稼ぎ、固定シフトだし、特に誰からも呼び出されないような人生を送っているから余った時間を自由に使える。そう考えたら気楽なもんですよ。

 

じゃあ大学も卒業して週に20時間も働かない人生で余暇をどう過ごすのかなんて、可能性は無限大なはずなのに無力感しかないのはどうしてだろう。

どうして日々キレイな職場で働いているのに、日に日に目が死んでいくんだろう。

 

確かに土曜の今日、出勤する時の空は快晴で青かった。

仕事を辞めた後の空の広さとコーヒーの美味さは特別な味だ。

なのに色がついている空は感情の無い青って気分で、せっかく500円も出して飲んだ大好きなコロンビア産のスペシャルティコーヒーは美味い、はずなのに何故か心が満たされない。

 

もっと安い豆を使っているけれど、心の籠もったマスターが一杯一杯丁寧に抽出してくれて、それを憧れの女子と一緒に飲んだ時の方が遥かに美味かった気がする。

 

出勤前にパン屋のバイトの業務報告LINEに別れの挨拶をした。

それ以前に敢えてこちらからメッセージを送った仲間と、送らなかった仲間がいる。

皆良いやつだし、嫌いなわけじゃないが辞めた時の反応が見たかったからだ。

 

差し障りのない文章で「お疲れ様でしたー」と返してくる者、「さみしいです」と言ってくれた女子、「また遊びに来てください」と言ってくれた女子、正直嬉しかったぜ。

 

全体LINEの挨拶を見て連絡をくれた人もいた。「お世話になりました」とか。

 

中には「今まで会って来た中でダントツのコーヒー好きで、変わった人だと思いました」と率直な意見をくれた人もいた。やっぱり普通じゃないんだな。

 

ちなみに敢えて事前に送らなかった、憧れの女子からは全体LINEの投稿後もメッセージが来ていない。そんなもんさ。

 

こちらの選択でそうなった訳だが、縁を切ったわけでもないものの一気に1クラス分くらいの人数の友人がいなくなったに等しい。誰一人向こうから遊びに誘ってくれなかったけれど、これでまた友達が皆無に近くなった。

 

仕事を一つ辞めて身軽になったはずなのに、何故か急激に不幸が伸し掛かってきたような気さえする。これで大学を卒業したらまた友達が減るのは間違いがなく、幾ら美味いコーヒーを毎日飲んでいてももう楽しかったあの日々には戻れないんだと嘆く未来が待っているようで、自分を変えるにしても能力も知恵も勇気もなくて、年寄みたいになっていくのだろうか。